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摘要

読者歴約40年ですが,初めて投書します。4月号の2A型戦標船に関する写真と記事を,感慨深く拝見しました。1947(昭和22)年10月1日,満洲で生まれ育った当時17歳の私は,記事中にあるこの型の山澄丸で葫盧島を離れ,10月5日佐世保に入港しました。敗戦後100万人を超える日本人が1946(昭和21)年に葫盧島から通送(強制送還)されましたが,なお技術者(父はその1人)等多くの日本人が留用されていました。しかし国共内戦が激化し八路軍(共産軍)が優勢になったため,仕事は困難かつ危険になって留用は解除され,藩陽に集結し,列車で葫盧島に移動して乗船しました。そこには山澄丸の他,「敵艦見ゆ」の信濃丸,丸裸の旧海軍小艦艇数隻が迎えにきていました。
机译:我已经读了大约40年的书,但是我是第一次写作。我在4月号上非常欣赏2A战舰的照片和文章。我于1947年10月1日在满洲出生并长大,那时,我乘坐这种类型的Yamasumi Maru离开Rohjima,并于10月5日进入佐世保市,当时我才17岁。战败后,1946年(昭和21年)从Hajirojima转移(强迫遣返)超过100万日本人,但许多日本人,例如技术人员(父亲是其中之一)被拘留。它是然而,由于该国内战的加剧和第八军(共产党军)的统治,工作变得艰巨而危险,该工作被取消,他们聚集在上阳。除山住丸以外,还迎接了“敌舰美优”的信浓丸和几艘裸露的海军小型舰艇。

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