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中江兆民外交観の変容に関する一考察

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序論

第1章 『論外交』にみる兆民の外交観

1.1 東洋のルソー

1.2 19世紀後半の国際情勢

1.3 壬午軍乱と明治政府の対応

1.4 『論外交』における道義外交

1.4.1 「富国強兵」への批判

1.4.2 西洋諸国の外交姿勢への批判

1.4.3 日本のとるべき外交の道

第2章 『三酔人経綸問答』にみる兆民の外交観

2.1 挫折に満ちた条約改正

2.2 甲申政変

2.3 『三酔人』――平和と侵伐と現実との交錯

2.3.1 紳士君の平和論

2.3.2 豪傑君の侵伐論

2.3.3 南海先生の穏健論

第3章 日清戦争後の中江兆民の外交観

3.1 日清戦争と三国干渉

3.2 義和団事件と日本の出兵

3.3 対外硬への転回

3.3.1 日清戦争への賞揚と三国干渉への憎悪

3.3.2 中国大陸への雄飛を主張

第4章 兆民における外交観変遷の原因及び今日への示唆

4.1 国際的原因――弱肉強食の世界システム

4.2 国内的原因――右翼思想からの影響

4.3 今日への示唆

結論

参考文献

致谢

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摘要

中江兆民(1847-1901)は、土佐藩の生まれ、明治時代の思想家、政治活動家である。彼は土佐藩で漢学を、また長崎や江戸でフランス学を学ぶ。明治維新後、最初の政府派遣留学生の一人としてフランスに渡る。フランスの思想家ルソーを日本に紹介して「東洋のルソー」と呼ばれる。
  19世紀後半、産業革命によって資本主義システムを整えた欧米列強は、アジアへの侵略を始めた。アヘン戦争による清国の敗北で、日本をはじめとするアジアの国々が深刻な衝撃を受けた。小国である日本の運命がこれからどうなるかは、当時の知識人、為政者にとって、避けられない問題となっていた。政治活動家としての兆民もこの激動な政治情勢に直面しなければならなかった。本論は、中江兆民の外交観およびその変遷を考察することによって、当時の東アジアにおける国際関係への理解を深め、今日における日本のとるべき外交の道を提言するものである。
  中江兆民の主張を考察すると、その外交観には大きな変化が見られる。つまり、前期の道義外交から後期の排外主義かつ対外強硬的な外交観に変化する。こういう変化が、一般的に民主から保守へ言われる。壬午軍乱をきっかけに執筆された『論外交』(1882)における道義外交を主張するのに対して、日清戦争後で排外主義·対外強硬の主張を噴出する。そのうち、1887年に執筆された『三酔人経綸問答』は兆民が外交の道に対する矛盾の気持ちに満ちた著作である。西洋近代思想を理想主義的に代弁する洋学紳士、膨張主義的国権主義思想を説く壮士風の豪傑君、これを迎える現実主義的な民権拡張論者の南海先生の三人の対談形式で、日本がいかにあるべきかを論じている。
  兆民における外交観の変化の原因は二つある。一つは、当時、欧米列強を中心とした弱肉強食の資本主義世界システムからの影響である。もう一つは、日本国内における右翼勢力の台頭である。日本の運命に関心をもつ兆民は厳しい東アジアの情勢に直面し、日本の生きる道を苦慮しているが、右翼思想にも影響され、更に右翼的な人物にも利用され、自ら最初の理想を捨てて対外拡張の外交の道を主張するようになる。が、厳しい国際環境に巻き込まれているとはいえ、やはり他国を侵略することによって、自国を発展させるという考え方は批判されるべきものである。
  国家の強弱·大小を問わず、みんな友好的に、平等的に交際するという美しい望みの満ちた道義外交は実現できなかったのは兆民の不幸であり、日本の不幸であり、更に歴史の悲劇でもある。

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